嵐の夜
ある山奥の小さな鉱泉宿での話...
その日の泊まり客は五人。二人連れの高齢の男性、単独の中年男性、そして親子だろう父親と小学低学年くらいの息子。もともとが付近に主要な観光地もない、山深い自然だけが売りの小さな民宿である。流行りの露天風呂などはなく、小さな湯舟の内湯があるだけ。夫婦二人だけで切り盛りし、その女房も数日前からはちょっとした病気のために入院しており、宿の主人ひとりだけで全てこなしていた。普段から客も少なく、それでもなんとかなる程度のものである。泊まり客の目的は、近くにある渓流での釣りであった。しかし残念なことに数日前から止むことなく降り続く雨のため、唯一の目的である翌日の釣り行も、成果を期待するどころか釣りそのものを行えるか怪しい状況だった。夕食に食堂で顔を合わせた釣り客達は、釣り談義に花を咲かせつつも、窓を叩く雨音に時折憂鬱そうな表情を見せる。そんな釣り客達の願いも虚しく、夜が更けても雨音はますます強くなるばかりであった。
夜中、山の上らしい鋭く爆発するような雷の音が鳴り響く。何度も眠りを妨げられながら客達は、明日はもしかして晴れるかもしれないという淡い期待が、雷の音と共に潰えるのを感じた。
翌朝、朝食もそこそこに親子は宿の会計を済ませ出て行った。雨足は弱まったものの、相変わらずしとしとと降り続けている。親子は早々に釣りを諦め、翌日への影響を慮って山を下りる決心をしたのだった。雨足が弱まったとはいえ、川は増水して子供連れには危険もあろう。麓に下りて別の観光でも楽しんでから家に帰ると言う。他の三人は恨めしそうに窓から空を眺め、遅い朝食をぼそぼそ食べた。
雨は止む気配を見せない。昼過ぎになって、諦め切れないのか二人連れがとにかく渓流に行ってみると言い出した。様子を見てイケそうならそのまま釣りをし、ダメならそのまま帰ると言う。宿の主人は充分気をつけるように言い聞かせ、雨の中車に釣具を積み込む二人を見送った。単独の中年男性客は二人について行こうかとも考えたが、どうにも雨が憂鬱で行く気になれず、そのまま宿に留まった。
一時間もしないうちに二人連れは宿に帰ってきた。少し興奮した様子で、途中の道路が崩れていると捲し立てる。宿への道はただ一本、その崩れた道路だけである。客達は帰る手段を失った。宿の主人はこの状況を地元の警察に連絡し、救援を依頼した。先に発った親子連れが心配である。巻き込まれてなければ良いが、と宿の主人は思った。
やがて雨足がまた強くなってきた。横殴りの雨が窓を激しく叩く。ついには電気が止まり、電話まで通じなくなった。この状況ではこの日のうちに救援は望めそうもない。客達はもう一泊を余儀なくされた。
その日の夜、食堂に集まり自家発電の薄暗い電球の下で客達は食事を取っていた。雷が鳴り響き、その度に窓の外が明るく照らし出される。雨が窓ガラスを激しく叩き、吹き荒れる風が窓をがたがた揺らす。自家発電は電圧が安定しないようで、電球は消えそうなほど暗くなったり、また明るくなったりを繰り返した。
「おや?」中年の男性客が不審そうな声を上げた。顔をしかめ、窓の外を食い入るように見つめる。「ほれ、あそこに誰かいないか?」
窓の外は宿の正面、砂利敷きの駐車場となっている。宿の主人と他の二人は窓に顔をくっつけ、目を凝らして見た。暗くてよく見えないが、雷が鳴った時に、客の車二台、そして宿のバンとジープ、四台のシルエットが浮かび上がった。四人が顔をくっつけている窓から車までは10メートルほど離れている。確かに車の付近に動く人影のようなものが見えた。動物なのか?と宿の主人は思った。人間にしては身長が低い。しかし、動物にしては四つ足には見えず、またこの激しい雨の中うろつく動物がいるとも思えない。そしてその疑問は、次に雷が鳴った時に確信に変わった。子供だ!
すぐ主人の頭に浮かんだのは、朝早くに発った親子連れであった。やはり崖崩れで足止めをくらったのだろうか。それにしては、後に出た二人の客と会っていないのは不思議だ。そして、何故今ごろになってようやく戻ってきたのかも疑問である。しかし深く考える間もなく、主人は玄関に走った。激しい雨に打たれていては堪らないだろう。主人は玄関を開け放ち、駐車場に向かって大声で叫んだ。
「おーい!こっち!早くこっち来い!」
開け放った玄関から激しく雨が吹き込む。目も開けられないほどだ。風で一歩押し戻される。
「こっち来〜い!」何度も叫ぶが、親子連れはいっこうに来る気配がない。激しい風雨に声が届かないのだろうか。雷が鳴り、薄目で見ると車の付近で動く人影はまだその場にいる。仕方なく主人はその人影の元に走り出ようとした。その時、ずずずず…と足元に気味悪い振動が伝わってきた。食堂から、客達の悲鳴に近い喚声が聞こえた。一台の車が、突然立ち上がったかと思うと、地の底に消えて行った。ずずず…。そしてまた一台、蟻地獄に引きずり込まれるように車が消えた。地崩れだ!すぐに助けねば!宿の主人は玄関を出ようとしたが、足がすくんで一歩も踏み出すことができなかった。今や、宿そのものが危険な状態であった。駐車場の反対側、宿の裏手は山の頂上へと続く急峻な山肌があるのみ。宿が地崩れに飲み込まれる危険があっても、彼らに逃げる道はなかった。そしてまた一台、吹き込む雨に濡れる主人の目の前で車が飲み込まれて消えた…。
翌日、夜中吹き荒れた嵐が嘘のように上がり、空は青く晴れ渡った。地崩れはからくも宿の手前で止まり、四人は眠れない恐怖の夜を過ごしたものの無事であった。主人が外に出てみると、車のあった辺りはすっぱりと切れ落ち、渓谷の底に向かって痛々しい傷跡を晒していた。夕べ見た子供の姿はどこにもなかった。
やがて、半分以上切れ落ち1メートルも無くなった道を辿り、地元消防団の二人が姿を現した。主人と客の身を案じ、まだ薄暗いうちから危険を冒して崩れた道を越えてきたのだ。まだ崩れる危険があるため、早急にヘリが出動すると言う。順番にヘリに釣り上げられてからやっと、これで本当に助かったと主人は安堵した。しかし気掛かりなのは親子連れのことである。だがそれも杞憂に終わった。昨日の午後、連絡を受けてからすぐに警察は親子の安否を確認したと言う。親子は崖崩れの前に道を抜けていたらしく、そんなことがあったとは露知らず無事に家に帰り着いていた。
では、夕べの子供は誰であったのか?
後に、主人はこう考えるようになったそうだ。宿の先、山奥に入った所には、かつて鉱山が存在していた。山奥でありながら、坑夫達でかなり賑わっていたようだ。坑夫を相手にする遊女までがいたそうである。この宿は古く、その時代から続いている。もちろん、その頃は温泉宿としてここも賑わっていた。坑夫はもちろん、遊女やその子供たちまでが宿に遊びに来ていたことだろう。やがて鉱山は閉鎖されることになったが、その際に坑夫達、そして遊女やその子供達も悲惨な死に方をしたそうである。温泉宿のように人の集まる場所には、様々な人生が交錯する。かつて思い出の場所となるそういった場所には、様々な思念が残りやすいだろう。嵐の夜、駐車場にいた子供は、そんな子供の一人ではないか。思い出してみれば、その子は現代の洋服などというものは着ておらず、着物を着ていたように思う。かつて思い出のこの宿を、地崩れから守るために現れたのではないだろうか。地崩れは、ちょうどその子供がいた辺りで止まっていた。
なぜ、それほど昔から続いたその宿が、今になってあの嵐で地崩れの危険に襲われたのか。それまで幾度となく台風も嵐も経験しているだろうに、不思議に思って訊ねてみた。
「下にはダムもできとるし。植林も進んじまって、昔とは木も地形も違っけ。」
その後、宿は再開されることはなかった。崩落防止のコンクリ打ちと、道路の復旧にかかる費用が捻出できなかった為である。崩落した道路は主要道の国道から離れ、宿に通じる為だけの道であったため、行政の補助も期待できなかった。今では歴史あるその宿も、放置され朽ちるに任せられたままだ。人々の様々な思念と共に、腐り落ちるのを待つのみとなっている…。