岳人
群馬県の土合駅は、JR上越線の新潟県との県境近くにある、少し変わった構造を持つ駅だ。山岳地域にあるため、線路は基本的にトンネルの中だが、駅舎と上り線だけは地上に出ている。しかし下り線は地中深いトンネル内にあるため、ホームから486段の階段を登らなければ地上に出れない。下り線ホームから改札まで、実に10分以上を要するという、体力の無い者には使いたくない駅である。
Sさんがその駅に降り立ったのは、単純に乗り過ごしてしまったからだった。
Sさんは8年前大学を卒業後都内で働き始めたが、連休ができるたびにひとりで旅をすることを続けていた。その日は手前の駅から温泉に向かう筈だったのに、心臓をばくばく言わせ階段を上りながら、Sさんは自分の間抜けさを呪った。上り線に乗り換えて戻るにしても、ホームはこの階段を上がったさらに先にある。こんなことなら、もうひとつ先の駅に行ってから乗り換えた方が何倍もマシだった。しかしこの駅で降りてしまった今、もう一度下り列車に乗ろうにも、次の列車は4時間後になってしまうのだ。
真冬のこの季節、Sさん以外他に乗客は誰もいなかった。薄暗い通廊に、彼の階段を上る靴音だけが響いた。気ままな一人旅であったが、こんな時は傍に誰かいて欲しい気持ちになる。やがてやっと階段を上り切るが、そこからもまだ薄暗い長い廊下が真っ直ぐ遥か先まで延びていて、気が遠くなった。
やっとの思いで突き当たりまで来て角を曲がると、その先に明かりの漏れている改札が見えた。明かりの奥からは、ざわざわと人の気配が漏れている。団体がいるようだ。土合駅は、観光シーズンには列車の発着に合わせて改札に駅員が立つこともあるが、基本的には無人駅だ。Sさんが無人の改札を通り待合室に入ると、直前の喧騒が嘘のようにシーンと静まり返った。待合室には5人の若者が四角いテーブルを囲み押し黙って座っていた。他人が現れると無言になるのはよくあること、とSさんは特に気に留めなかった。時刻表を見てみると、次の上り列車は1時間半後だった。少し迷った後、そんなに待つくらいならと、歩くことに決めた。
外に出ると、大粒の雪がぼたぼたと降っていた。駅前の階段には背丈ほども雪が積もり、人の幅だけ除雪された溝が掘られている。足を滑らしそうになりながら階段を降り、一番下と思われる所に足を降ろした途端、ずぼっと膝近くまで足が雪に潜った。雪は激しく、道路どころか空と地面の境界さえわからないほど。まだ昼を少し過ぎたばかりの時間だというのに薄暗く、土地勘のない者は遭難してしまいそうに思えた。こりゃたまらん、とSさんは階段の上まで引き返し、ちょっと時間が早いが今晩宿泊予定の旅館に迎えに来てもらうことに決め、携帯で連絡した。
再び待合室に戻ると、先ほどの5人はまだ押し黙ったままテーブルを囲んでいる。声をかけようかとも思ったが、そういう雰囲気じゃない気がしてやめ、少し離れた床にボストンバッグを置いてその上に腰掛けた。5人はどうやら登山からの帰りのようで、それぞれ大きなザックを自分の横や前に置いていた。ウエアは擦り切れくたびれている。顔は疲れ切って黒ずみ、うつむいて目を閉じたままぴくりとも動かない。よほど激しい山をやってきたんだな、とSさんは思った。
10分ほどで、宿の迎えはやって来た。おじさんが入口からひょこっと顔を出すと、Sさんに向かって「Sさんですか?」と呼びかけた。Sさんは立ち上がってボストンバッグを掴み、「そうです、そうです。」と言いながら入口に向かった。「すみません、わざわざ来てもらっちゃって。」
入口を出ようとした時、目の端にそれを捕らえ、「あれっ!」思わず声を上げて振り返った。先ほど5人が囲んでいたテーブルが目の前にある。しかし、今は誰もいなくなっていた。Sさんが入口に向かって歩いた時にはまだいた筈だ。ホームに行ったのだろうか。5人が移動したにしては、その気配も何も感じなかった。上り列車だとしてもまだ1時間以上あるので、今からホームに行く理由も分からない。まるで、一瞬のうちに蒸発してしまったようだった。「今、ここに5人いましたよね。」宿の人に聞いてみたが、宿の人は首を横に振った。
きゃらきゃらとチェーンの音が車の中に響く。宿に向かう道すがら、Sさんは今あったことを宿の人に訴えた。宿の人は、気にしなくていいことだ、と言う。
土合駅の先には、天神平スキー場に行くロープウエイ駅がある。さらにその先、山道を行くと、一ノ倉の壁がある。ロープウエイ頂上駅からは谷川岳に登る登山道が付いている。また、一ノ倉の壁にはクライマーを志した者達が集う。道迷い、滑落、谷川岳は遭難死者数世界一、その記録は他の山の追随を許さぬ、魔の山だ。東京に近く安価にチャレンジできて、それでいて難易度の高さが、若い者達を惹きつけた結果だろうが、多くの者が志し半ばに若い命を散らした。土合駅は、そういった若者たちの出発点だ。駅に降り立ち、血を熱くしながら一歩を踏み出す始点。だから、死んでしまってからもここに戻ってきてしまう者が、たまにいる。
あんた若いから話すけど、と宿の人は言葉を続けた。「うちにもね…」
やはりこの日のようにしんしんと雪の降る夜だった。宿の入口をがらがら開け、一人の若者が入ってきた。風呂を貸してもらえないか、と言う。若者は疲れ切ってぼろぼろの様子で、凍えきっているのか小刻みに震えていた。大きなリュックを担いでいたので、登山者だとわかった。日帰り入浴はやってないのだが、その姿に哀れさを感じたので、快く風呂場に案内した。金がないのか一夜の宿を求めはしなかったが、あの様子では今晩過ごす所にも困るだろう。可哀想だから泊めてやるか、と考えながら玄関に戻って若者の靴を揃えようとしたのだが…。靴がなかった。確かにここで脱いだ筈なのに、どこにも靴が見当たらなくなっていた。慌てて風呂場に取って返した。風呂場にも、人の気配は無くなっていた。ああ、そういうことか、と納得し、湯舟に向かって手を合わせた。今でもまれに、風呂を借りに来ることがあるが、何も聞かず風呂を貸してやるのだ、と宿の人は言った。
「奴ら、死んだことに気づいてないか、寂しいだけで、何を悪さするわけでもないから…」